1982-04-13 第96回国会 参議院 外務委員会 第5号
そのことは、幕府の外交に携わった人も後で取り返しのない悲劇として腹を切ったり、文久二年に竹内下野守あるいは松平石見守あたりが、あのとき中国側から示された地図なり何なりはあれは間違いのもとだと言って訂正を申し入れて、グリニッジ天文台にまねしてつくられたペテルスブルグにおけるところの郊外につくられたイギリス製の地図を見て、はっきりそこでは樺太が、北緯五十度以南が日本領になって記されている。
そのことは、幕府の外交に携わった人も後で取り返しのない悲劇として腹を切ったり、文久二年に竹内下野守あるいは松平石見守あたりが、あのとき中国側から示された地図なり何なりはあれは間違いのもとだと言って訂正を申し入れて、グリニッジ天文台にまねしてつくられたペテルスブルグにおけるところの郊外につくられたイギリス製の地図を見て、はっきりそこでは樺太が、北緯五十度以南が日本領になって記されている。
それより前に、井伊掃部頭のやった主体性を失った腰抜け外交を是正しなけりゃならぬと言って、幕府の外交官でも竹内下野守、松平石見守は、井伊大老が殺された後、直ちにペテルスブルグ——いまのレーングラードへ入ってグリニッジ天文台のイギリスでつくった地図によって南樺太は日本領土だとされているのを証拠に、時の崩れ行く帝政ロシアのマキャベリズムの外交に対して一撃を与えて、そうして帰ってきているじゃありませんか。
にはなかなかいいところがあるけれども、北方領土の問題は、二月七日の下田条約を原点とするというような見方は、北方問題において幕府の中においてもどれだけ苦労して、ソ連の謀略を破るために、井伊掃部頭が殺された後においてもペテルスブルクに入って、グリニッジ天文台に掲げられていると同じような世界地図が帝政ロシアの天文台に掲げられており、それには北緯五十度以南は日本領土となっているという具体的な事実を突き詰めて、そうして竹内下野守、松平石見守
日本だってあの黒船外交に恐れおののき、腰抜け外交をやったところに、その後、井伊直弼が殺され、また、そのロシアの失敗、無理、不条理を指摘した幕末の外交官の竹内下野守なり松平石見守なりが、ロシアの天文台に、ペテルスブルグに掲げられてあったイギリス製の地図が樺太の五十度以南は日本領に書かれているのであって、あなたの国の天文台が世界的に共通に掲げている地図には北緯五十度以南は日本になっているじゃないかと言われて
徳川崩壊期における日本の外交でも、松平石見守なりあの竹内下野守なり、文久二年ペテルスブルクに行って五十度の線を通じての樺太の問題を論じたときでも、崩壊すべき幕府の外交官でも堂々としてロシアの天文台に行って、そこに掲げている地図をイギリス製であるが示して、このように万国が南樺太以南は日本領であるということを明示しているじゃないかと言って、具体的な事例をひっ提げてソ連側とも論議を尽くしているのであります
ちょんまげをしたときでも、文久二年の——私はレニングラードで昔研究したことがありますが、日本の外交官で一番えらかったのは、徳川幕府が瓦解するときのやはり松平石見守と竹内下野守が行ったときの樺太の交渉というのは文久二年であり、あのときに、ソ連はいなか外交だからどうしても問題を値切ったり、まともな外交じゃいかない。
——第三ヒント、松平石見守、それでもわからぬですか。——これだからいけない。藤山さんもよく聞いて下さい。文久二年の七月に、徳川幕府の全権特使として、樺太の紛争を解決する使命でロシアに行ったのが松平石見守です。これは行く前にイギリス、フランス、オランダ、アメリカで発行されている世界地図を買った、それを見ると北緯五十度以南が日本領土になっておる、以北がロシアになっておる。
領土権の主張に対しては極めて怯懦なので、当初から外交政策の中において社会党は出しているのでありますが、特に樺太、千島の問題に対して今日の自由党のごとき、或いは改進党においても然りでありますが、日露戦争後におけるポーツマス条約によつて領土を獲得したというような観念で以て領土観念を見ているようでありますが、少くとも樺太等は幕末における間宮林蔵の探険によつてこれが日本領土であることを確認され、文久二年に松平石見守